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皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします
皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします
作者: 常陸之介寛浩

第一話 皇后を殺したのは寵妃様でした

last update 公開日: 2026-08-12 13:44:51

皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。

 それを知っているのは、たぶん私だけだ。

 月の細い夜だった。

 白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。

 私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。

 下級宮女は、音を立ててはいけない。

 目立ってもいけない。

 妃様方の顔を見上げてもいけない。

 命じられる前に動き、褒められる前に消える。

 それが、後宮で長く生きるための作法だった。

 だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。

 玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。

 白い指だった。

 雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。

 その手が、毒を入れた。

 薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。

 玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。

 まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。

「……静寧様」

 玉蘭妃は小さく呟いた。

 皇后様の名だった。

「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」

 その声は泣いているようにも聞こえた。

 でも、泣いてはいなかった。

 玉蘭妃は微笑んでいた。

 私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。

 逃げなければ。

 今すぐ逃げなければ。

 けれど、足が動かなかった。

 玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。

「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」

 女官の声は少し硬かった。

 皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。

 玉蘭妃はゆっくり振り返った。

「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」

「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」

「ええ。だから薬湯だけでもと思って。明霞に頼まれていましたのよ」

 その名を聞いた瞬間、私の指が強張った。

 明霞姉様。

 私を妹のように扱ってくれる、ただ一人の上級女官。後宮に売られて右も左も分からなかった私に、最初に粥を分けてくれた人。

 玉蘭妃の口から、その名が出た。

 女官は一瞬迷ったようだった。けれど、玉蘭妃はもう一度、柔らかく微笑んだ。

「ねえ、皇后様を待たせてはお悪いでしょう?」

「……承知いたしました」

 女官は器を受け取り、奥の寝殿へ入っていった。

 私は、まだ動けなかった。

 玉蘭妃はしばらくその扉を見ていた。白い横顔は、灯籠の明かりに照らされて淡く輝いている。美しい人だった。

 誰かを殺す人間が、こんなに美しくていいのだろうか。

 そう思った時だった。

「そこにいるのは、誰?」

 心臓が止まった。

 玉蘭妃の声は、先ほどと同じように柔らかかった。怒っていない。慌ててもいない。ただ、春の花を見つけたみたいに、静かに問いかけている。

 私は息を止めた。

 沈黙が落ちた。

 遠くで、夜番の銅鑼が鳴った。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 玉蘭妃が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。

 衣擦れの音がした。香が濃くなる。沈丁花ではない。玉蘭妃の香だ。甘く、冷たく、どこか喉の奥に引っかかる匂い。

 私は柱の陰から出られなかった。足が震えている。見つかったら終わりだ。声を上げても誰も信じない。私は下級宮女で、相手は皇帝陛下の寵妃。月と泥ほどの違いがある。

 その時、背後から強い手が私の口を塞いだ。

「っ……!」

「動くな」

 耳元で低い声がした。

 男の声。

 私は暴れかけたが、その手は口を塞いだまま、私の体を柱のさらに奥、暗い物置の扉の隙間へ押し込んだ。

 古い木箱と掃除布の匂いがした。

 隙間から、玉蘭妃の裾が見えた。白と紅の裾。金糸の刺繍。蓮の花。

「……気のせいかしら」

 玉蘭妃は呟いた。

 すぐ近くにいる。

 私の口を塞ぐ手に、少しだけ力がこもった。苦しい。けれど声は出ない。

「おかしいわね。今、鼠の気配がしたのだけれど」

 鼠。

 後宮で下級宮女を馬鹿にする時によく使われる言葉だ。

 美しい妃様方の足元を走り回り、床の埃を舐め、時々踏み潰されるもの。

 玉蘭妃はくすりと笑った。

「まあいいわ。鼠は鼠らしく、壁の穴に戻ればいいのですもの」

 足音が遠ざかっていく。

 香も遠ざかる。

 私はその場に崩れ落ちそうになったが、背後の男が腕で支えていた。

 しばらくして、男は私の口から手を離した。

「声を出すな」

 私は何度も頷いた。

 暗がりに目が慣れてくると、私を押さえていた男の輪郭が見えた。

 黒い衣。細い顎。長い睫毛。冷たい目。

 宦官だった。

 後宮に出入りする男は、皇帝陛下を除けば宦官だけだ。私は一度だけ、この人を遠くから見たことがある。確か、内侍省に所属する若い宦官。名は――。

「黎星、様……?」

 私が囁くと、男は片眉をわずかに上げた。

「下級宮女にしては、よく人の名を覚えている」

「申し訳、ございません」

「謝れとは言っていない」

 黎星様は扉の隙間から外を確認した。薄い月明かりが横顔をなぞる。宦官にしては妙に威がある人だと思った。言葉少なで、表情がない。けれど、こちらを見る目だけは刃物のように鋭い。

「今、何を見た」

 私は唇を噛んだ。

 答えてはいけない。

 でも、黙っていてもいけない。

 今なら言えるかもしれない。この人なら、上へ伝えてくれるかもしれない。皇后様を助けられるかもしれない。

 私は震える声で言った。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、白い粉を」

 そこまで言ったところで、黎星様の目が細くなった。

「最後まで言うな」

「でも、皇后様が……!」

「もう遅い」

 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

「遅い、とは」

「お前が見た薬湯は、もう皇后の寝殿に入った。今ここで騒げば、騒いだ者から殺される」

「そんな……」

「後宮とはそういう場所だ」

 冷たい言い方だった。

 けれど、その冷たさが嘘ではないことくらい、私にも分かった。

 後宮で真実は命を助けない。

 むしろ、命を奪う。

「名前は」

「……鈴花です。洗衣局の下級宮女です」

「鈴花」

 黎星様は、私の名を一度だけ口の中で転がすように呼んだ。

 その瞬間、妙な気持ちになった。

 後宮で私の名をきちんと呼ぶ人は少ない。たいていは「そこの者」「洗衣の子」「鼠」「あの地味な子」だ。名前を呼ばれるだけで、足元が急に頼りなくなる。

「今夜のことは忘れろ」

 私は目を見開いた。

「忘れろ、ですか」

「忘れたふりをしろ。できるか」

「……できません」

「なら死ぬ」

「でも、皇后様が」

「皇后を助けたいなら、なおさら黙れ」

 意味が分からなかった。

 私が黙れば、皇后様は死ぬかもしれない。もう死んでいるかもしれない。それなのに、どうして黙ることが助けになるのか。

 黎星様は、私の混乱を読んだように言った。

「毒を入れるところを見た。そう証言して、お前の言葉を誰が信じる。玉蘭妃は皇帝の寵妃だ。お前は洗衣局の下級宮女。証拠はない。器は洗われる。粉は消える。見ていたお前だけが消される」

「でも……」

「正しさだけで人が救えるなら、後宮に死体は出ない」

 私は言い返せなかった。

 黎星様は私の腕を掴んだ。

「今すぐ洗衣局へ戻れ。誰にも会うな。誰にも話すな。明日の朝、何が起きても、お前は驚くな」

「明日の朝……?」

 黎星様は答えなかった。

 その代わり、戸を少し開け、外に誰もいないことを確認すると、私を回廊へ押し出した。

「走るな。歩け」

「はい」

「振り返るな」

「はい」

「鈴花」

 私は足を止めた。

 振り返るなと言われたのに、振り返りそうになる。

 黎星様の声は低かった。

「生きたければ、今夜見たものを目の奥に隠せ。口に出せば、その口ごと潰される」

 私は、返事ができなかった。

 ただ、抱えていた寝衣を胸に押し当て、歩いた。

 走ってはいけない。

 振り返ってはいけない。

 声を出してはいけない。

 けれど、頭の中では、玉蘭妃の白い指が何度も薬湯に粉を落としていた。

 沈む。

 溶ける。

 消える。

 まるで人の命みたいに。

     ◇

 洗衣局に戻ると、夜番の蘭々が釜のそばでうたた寝していた。

 丸い頬に煤がついている。歳は私より一つ下で、よく食べ、よく怒り、よく泣く子だ。後宮では珍しいほど顔に感情が出る。だから私は、少し心配している。

 ここで長く生きるには、感情は邪魔になるから。

「……鈴花?」

 蘭々が目をこすりながら顔を上げた。

「あんた、遅かったじゃない。白玉宮まで行くだけで、なんでそんなに時間かかってんの」

「ごめん。回廊で夜番に止められて」

「また? あいつら本当、下級宮女相手だと偉そうにするんだから。で、寝衣は?」

「ここに」

 私は抱えていた寝衣を棚に置いた。手が震えていたので、布が少し崩れた。

 蘭々が怪訝そうに目を細める。

「ねえ、顔色悪くない?」

「平気」

「平気な顔じゃないって。何かあった?」

 何かあった。

 皇后様が殺されるかもしれない。

 玉蘭妃様が毒を盛った。

 私は見た。

 言いたかった。

 喉まで出かかった。

 でも、黎星様の声が耳の奥で響いた。

 口に出せば、その口ごと潰される。

「……少し、寒かっただけ」

 私は笑おうとした。うまく笑えたかは分からない。

 蘭々は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

「なら火のそばにいなよ。明霞様が来たら、また怒られるよ。あんた、すぐ自分の具合隠すんだから」

 明霞姉様。

 名前を聞いた瞬間、胸が軋んだ。

「明霞姉様、来るの?」

「来るって言ってたよ。皇后様の寝衣の仕上がりを見に。あの人、上級女官なのにいちいち自分で見に来るんだから、真面目だよねえ」

 蘭々は欠伸をした。

「でもさ、私は好きだな。あの人、下級にもちゃんと人間扱いしてくれるし。玉蘭妃付きの女官なんて、こっち見もしないじゃん。前に洗い直し命じられた時、私のこと『小さい方の鼠』って呼んだんだよ。鼠にも名前くらいあるっての」

 私は返事ができなかった。

 明霞姉様が来る。

 玉蘭妃はさっき、明霞に頼まれたと言った。

 違う。

 そんなはずがない。

 明霞姉様が皇后様の薬湯を、玉蘭妃に頼むはずがない。

 でも、もし。

 もし玉蘭妃が、最初から明霞姉様の名前を使うつもりだったのなら。

「鈴花?」

 蘭々が覗き込んできた。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫」

「嘘。あんた、そういう時ほど大丈夫って言う」

「蘭々」

「何」

「今夜、私が何か変なことを言っても、聞かなかったことにして」

 蘭々の目が丸くなった。

「は?」

「お願い」

「何それ。怖いんだけど」

「お願い」

 私があまりに真剣だったからか、蘭々は口を閉じた。しばらく見つめてから、ぷいっと横を向く。

「……あんたって、ほんと秘密が下手」

「ごめん」

「秘密にしたいなら、もっと普通の顔しなよ。死人みたいな顔して『何もありません』は無理があるって」

 死人。

 その言葉に背中が冷えた。

 私は火のそばに座った。濡れた薪がぱちりと音を立てる。湯気と煙の匂い。洗衣局の夜はいつも同じ匂いがする。布と灰と湿った木。後宮の一番底の匂い。

 妃様方の宮では、香が焚かれ、銀の器が並び、絹が擦れる音がする。

 けれど、その美しい場所で毒が入れられた。

 ここは汚れているけれど、まだ生きている匂いがする。

 私は両手を火にかざした。指先の震えが止まらない。

 しばらくして、戸が開いた。

「鈴花」

 優しい声だった。

 明霞姉様が立っていた。

 淡い緑の上衣に、皇后宮の女官がつける銀の帯飾り。きつく結い上げた髪。疲れているのに、いつも背筋が伸びている。

 明霞姉様は私の顔を見るなり、眉をひそめた。

「どうしたの、その顔」

 蘭々がすぐに口を挟んだ。

「ですよね。変ですよね。私が聞いても寒かっただけとか言うんです」

「蘭々、少し席を外して」

「え、でも」

「お願い」

 明霞姉様の声は柔らかいのに、逆らえない力があった。蘭々は不満そうに唇を尖らせたが、桶を持って奥へ引っ込んだ。

 二人きりになった。

 明霞姉様は私の前に膝をついた。

「何を見たの」

 息が止まった。

「どうして……」

「あなたは嘘をつく時、右手の親指を握り込むの。昔から」

 私は自分の手を見た。確かに、親指が掌に食い込んでいた。

 明霞姉様は小さく息を吐いた。

「鈴花。大事なことなら、私にだけ言いなさい。誰にも聞かせてはいけないことなら、なおさら」

「……言ったら、姉様が危ないかもしれません」

「もう危ないところにいるわ。皇后宮に仕えている時点で、今さらよ」

 明霞姉様は冗談めかして笑った。

 その笑顔を見て、私は泣きそうになった。

 言ってはいけない。

 でも、言わなければ。

 明霞姉様なら信じてくれる。明霞姉様なら、皇后様を救えるかもしれない。

 私は声を絞り出した。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、何かを入れました」

 明霞姉様の表情が消えた。

 驚きではなかった。

 恐怖でもなかった。

 それは、ずっと恐れていたものがとうとう来た、という顔だった。

「……見たのね」

「はい」

「誰かに話した?」

「いいえ。黎星様にだけ」

「黎星に?」

 明霞姉様の声が、ほんの少し鋭くなった。

「なぜ黎星がそこにいたの」

「分かりません。私を隠してくれて……黙れ、と」

「そう」

 明霞姉様は目を伏せた。

 私は急いで言った。

「皇后様は? 今ならまだ、薬湯を止められるかもしれません。器を調べれば、毒が」

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 私は黙った。

 明霞姉様は、ひどく悲しい顔で私を見ていた。

「今から白玉宮へ行ってはいけない」

「でも」

「行ってはいけない」

「どうしてですか!」

 思わず声が大きくなった。

 奥で蘭々が動く気配がしたが、こちらへは来なかった。

 明霞姉様は私の両肩を掴んだ。

「あなたが行けば、あなたが犯人にされる」

「私は何もしていません!」

「していない者が罪人にされる場所なの。ここは」

 私は言葉を失った。

 明霞姉様の指が震えていた。

「玉蘭妃は、もう動いている。あなたが見たなら、あちらも気づいているかもしれない。そうなれば、証人を消すより簡単な方法を取る」

「簡単な方法……?」

「証人を、犯人にする」

 寒気がした。

 玉蘭妃が言った。

 明霞に頼まれていた、と。

 あの場にいた女官は、その言葉を聞いている。

 もし皇后様が死ねば、薬湯を用意したのは誰かという話になる。

 玉蘭妃は言うだろう。

 明霞に頼まれたと。

「姉様……」

 明霞姉様は、私の肩から手を離した。そして袖の中から小さな簪を取り出した。

 古い簪だった。

 銀細工の蓮。花の中央に青い石がはめ込まれている。高価なものではないけれど、丁寧に磨かれていた。

「これを持っていて」

「これは?」

「今は聞かないで。肌身離さず持っていて。誰にも見せてはいけない。蘭々にも」

「どうして私に」

「あなたが、一番よく見ているから」

 意味が分からなかった。

 でも、明霞姉様の目があまりに真剣で、私は簪を受け取った。

 ひやりと冷たい。

「鈴花」

「はい」

「明日の朝、何が起きても、あなたは泣いてはいけない」

「……何が、起きるんですか」

 明霞姉様は答えなかった。

 ただ、私の頬に手を伸ばし、母親のようにそっと撫でた。

「あなたは賢い子よ。でも、賢い子ほど、自分の正しさで死にたがる。だから約束して。生きて。見たことを忘れないで。でも、今は言わないで」

「姉様」

「いつか言える時が来る。その時まで、目の奥に隠しなさい」

 黎星様と同じことを言った。

 目の奥に隠せ。

 私は首を振った。

「嫌です。姉様、どこへ行くんですか。今から白玉宮へ行くんでしょう? 駄目です。玉蘭妃様は姉様の名前を出しました。罠です。絶対に」

「分かっているわ」

「分かっているなら!」

「分かっていても、行かなければならない時があるの」

 明霞姉様は立ち上がった。

 その顔は、もういつもの上級女官の顔に戻っていた。背筋を伸ばし、乱れた袖を直し、帯飾りの位置を確かめる。

 私は慌ててその袖を掴んだ。

「行かないでください」

「鈴花」

「お願いです。姉様までいなくなったら、私……」

 声が震えた。

 後宮で泣くのは愚かだ。

 知っている。

 それでも、涙がこぼれそうだった。

 明霞姉様は困ったように笑った。

「あなた、そういうところは本当に子供ね」

「子供でいいです。だから行かないで」

「……ごめんね」

 その謝罪が、別れの言葉に聞こえた。

 明霞姉様は、私の指を一本ずつ袖から外した。

「鈴花。あなたは生きて。どれだけ惨めでも、どれだけ悔しくても、生きていれば見届けられる。死んだら、悔しいと思うことすらできない」

「姉様」

「それと」

 明霞姉様は、少しだけ目を伏せた。

「私を、信じすぎないで」

 私は瞬きをした。

「え?」

「優しい人間だけが、人を利用するのよ。覚えておきなさい」

 その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

 明霞姉様はそれ以上何も言わず、洗衣局を出ていった。

 私は追いかけようとした。

 けれど、足が動かなかった。

 手の中には、冷たい簪が残っていた。

     ◇

 夜が明ける前、後宮の鐘が鳴った。

 それは朝を告げる鐘ではなかった。

 異変を告げる鐘だった。

 洗衣局にいた者たちは皆、顔を上げた。蘭々が桶を落とし、水が床に広がる。

「何……? 何の鐘?」

 誰も答えられなかった。

 やがて、外が騒がしくなった。女官たちの足音。宦官の怒鳴り声。誰かの泣き声。

 私は火の消えた釜の前に立ち尽くしていた。

 知っていた。

 それでも、知りたくなかった。

 戸が乱暴に開いた。

 入ってきたのは、玉蘭妃付きの上級女官だった。名は朱燕。細い目をした女で、いつも人を値踏みするように見る。

「洗衣局の者、全員その場を動かぬように」

 蘭々が震えながら尋ねた。

「何が、あったんですか」

 朱燕は冷たく答えた。

「皇后様が崩御された」

 誰かが悲鳴を上げた。

 私は、息を吸うことも吐くこともできなかった。

「そして、皇后様の薬湯に毒を盛った疑いで、皇后宮上級女官・明霞が捕らえられた」

 世界が、音を失った。

 蘭々が私を見た。

 私は何も言えなかった。

 朱燕の視線が、ゆっくりこちらへ向いた。

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 玉蘭妃でも、黎星様でも、明霞姉様でもない人に呼ばれた私の名は、まるで罪状のように聞こえた。

「玉蘭妃様がお呼びです」

 私は手の中の簪を、袖の奥に押し込んだ。

 朱燕は笑っていなかった。

 けれど、その目の奥には、もう結果を知っている者の冷たさがあった。

「行きなさい。寵妃様は、お前に聞きたいことがあるそうよ」

 蘭々が小さく私の袖を掴んだ。

「鈴花……」

 私は蘭々の手をそっと外した。

 泣いてはいけない。

 驚いてはいけない。

 叫んではいけない。

 明霞姉様はそう言った。

 私は下級宮女だ。

 誰にも名前を覚えられない、後宮の鼠だ。

 鼠は、恐ろしいものを見ても、鳴いてはいけない。鳴けば踏み潰される。

 だから私は、頭を下げた。

「承知いたしました」

 声は、思ったより落ち着いていた。

 自分でも驚くほどに。

 白玉宮へ向かう回廊は、昨夜と同じように沈丁花の香がした。

 けれど、夜が明けた後宮は、もう美しい花園ではなかった。

 皇后様は死んだ。

 明霞姉様は犯人にされた。

 玉蘭妃は、きっと微笑んでいる。

 そして私は、犯人を知っている。

 でも証拠はない。

 それでも、手の中には簪がある。

 冷たく、小さく、けれど確かに残されたもの。

 白玉宮の扉の前で、朱燕が足を止めた。

「粗相のないように。玉蘭妃様は、皇后様のことで大層お心を痛めておられる」

「……はい」

 扉が開いた。

 甘い香が流れてきた。

 その奥で、玉蘭妃が椅子に座っていた。白い衣。紅の帯。昨夜と同じ美しい指。目元は泣いたように赤く、頬は儚げに青ざめている。

 誰が見ても、悲しみに沈む寵妃だった。

 玉蘭妃は私を見ると、ゆっくり微笑んだ。

「来てくれたのね、鈴花」

 名前を知っていた。

 私は床に膝をついた。

「玉蘭妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう――」

「堅苦しい挨拶はいらないわ」

 玉蘭妃は手を伸ばし、机の上の菓子皿を指した。

 白い菓子だった。

 雪のように白く、粉砂糖がかかっている。

「お食べなさい。顔色が悪いわ」

 私はその菓子を見た。

 白い粉。

 薬湯に沈んだ白い粉。

 玉蘭妃は、優しく首を傾げた。

「どうしたの? まさか、私の差し上げるものが怖いの?」

 部屋の隅に朱燕がいる。

 扉の外には宦官がいる。

 逃げ場はない。

 私は菓子に手を伸ばした。

 指先が震えそうになるのを必死で押さえる。

 玉蘭妃が囁いた。

「賢い子は、長生きしたいでしょう?」

 昨夜のことを、気づいている。

 その瞬間、はっきり分かった。

 これは問いではない。

 脅しだ。

 私は菓子を口に入れた。

 甘かった。

 ひどく甘かった。

 喉の奥に、砂のような甘さが貼りつく。

 玉蘭妃は満足そうに微笑んだ。

「おいしい?」

「……はい。大変、おいしゅうございます」

「そう。よかった」

 玉蘭妃は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。そして、私の顎に指を添え、顔を上げさせた。

 近くで見る玉蘭妃は、本当に美しかった。

 睫毛の影まで美しい。

 人を殺した女だと知っていても、見惚れそうになるほどに。

「ねえ、鈴花」

「はい」

「昨夜、あなたは何も見なかった。そうでしょう?」

 私は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 皇后様の薬湯。

 白い粉。

 明霞姉様の簪。

 黎星様の声。

 生きろ、という言葉。

 目を開ける。

 私は下級宮女らしく、深く頭を下げた。

「はい。私は昨夜、何も見ておりません」

 玉蘭妃の指が、私の顎から離れた。

「いい子ね」

 その声は、母のように優しかった。

 だからこそ、吐き気がした。

「なら、明霞のことも忘れなさい。あの女は皇后様を裏切った罪人。あなたのような子が心を痛める相手ではないわ」

 胸の奥で、何かが焼けた。

 でも顔には出さなかった。

 私はただ、もう一度頭を下げた。

「承知いたしました」

 玉蘭妃は笑った。

「本当に賢い子」

 私は床に額を近づけながら、袖の奥の簪を握りしめた。

 賢い子は、長生きしたいでしょう。

 ええ、玉蘭妃様。

 私は長生きします。

 あなたが皇后様を殺した夜のことを、忘れないために。

 明霞姉様を罪人にしたこの後宮を、最後まで見届けるために。

 今はまだ、私は鼠でいい。

 床を這い、埃をかぶり、誰にも見下される下級宮女でいい。

 けれど、鼠には鼠の見ている景色がある。

 妃様方の裾の汚れ。

 床に落ちた粉。

 誰かが隠した足跡。

 美しい香の奥に混ざる、腐った匂い。

 私はそれを、全部覚えている。

 玉蘭妃様。

 あなたが私にくれたこの甘い菓子の味も。

 私は、死ぬまで忘れない。

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    信頼を最後の封にした。 青羅の紙に書かれていたその一文は、薄い刃のようだった。 刺さっているのに、どこから血が出ているのか分からない。 蘭々なのか。 白瑛なのか。 景黎様なのか。 老医官様なのか。 皇帝陛下なのか。 母なのか。 あるいは、私自身なのか。 白家は、人を疑わせるのがうまい。 それも、ただの疑いではない。 疑うと罪悪感が生まれる相手を、わざと疑わせる。 信じたい人を疑わせる。 疑った瞬間、自分が少し汚れたような気持ちになる。 その汚れが嫌で、目を逸らす。 すると罠が動く。 嫌な仕組みだ。 実に白家らしい。「鈴花」 景黎様が紙を取り上げようとした。 私は反射的に押さえた。「まだ見ます」「もう十分見ただろう」「まだです」「顔が青い」「いつもです」「いつも青いなら問題ないと思うな」 景黎様の声が硬い。 怒っているのではない。 焦っている。 青羅の紙は、景黎様にも刺さっている。 信頼。 私たちが一番信じている人。 その中に第三封がある。 景黎様は、疑われる側にも疑う側にも立つ人だ。 皇弟。 死んだと思われていた人。 外朝に担がれかけた人。 そして、今は私の台車の横にいつもいる人。「景黎様」「何

  • 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします   第六十四話 第三封は、名を捨てさせる

    青羅が消えた。 その報せは、火より早く後宮を走った。 内侍省の書庫番。 十五歳。 女として生まれたが、男装して内侍見習いとして育てられていた子。 白家の子の帳では、未覚醒。 けれど、赤紐を扱える可能性がある。 死帳の第二封を開く予備鍵かもしれないと見られ、保護されたばかりだった。 その青羅が、医療房へ移される途中で姿を消した。 残された紙には、こうあった。『第三封は、もう開いています』『還名裁議に、白家の名を入れよ。入れなければ、白家の子は全員、自分で名を捨てる』 白家の名を入れよ。 名を捨てる。 どちらも、嫌な言葉だった。 私はその紙を膝の上に置いたまま、しばらく見つめていた。 白い紙。 整った字。 筆の払いに迷いがない。 でも、最後の「捨てる」の一画だけ、少し力が強い。 怒りか。 恐れか。 あるいは、泣くのをこらえた手の震えか。「鈴花」 景黎様が、私の顔を覗き込んだ。「考える顔をしている」「考えないと困ります」「倒れる顔でもある」「それは別です」「別にするな」 私は台車の上にいた。 はい、台車だ。 もう説明するのも悔しい。 朝から老医官様に「寝台から出るな」と言われたのに、青羅失踪で医療房へ移され、今は医療房の奥にある小さな控え部屋で台車ごと固定されている。 固定されている、という言い方は嫌だが、実際、車輪に布が噛ませてある。 逃亡

  • 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします   第六十三話 炭庫の底で、蓋は鳴る

    行けない。 そう分かっているのに、体は勝手に動こうとした。 寝台の端を掴む。 布団を押しのける。 足を下ろそうとする。 その瞬間、母の手が私の腕を掴んだ。「鈴花」 母の声は、ひどく静かだった。「行けないわ」「蘭々が」「分かっている」「白瑛も」「分かっている」「なら」「行っても、あなたは穴の中へ飛び込めない」 言葉が刺さった。 分かっている。 分かっていることを、母の口から言われると腹が立つ。 でも、母の手は震えていた。 私を止める手が。 自分の娘をまた失うのではないかと怯える手が。「母さん」「怒っていいわ。でも止める」「……」「あなたが行って倒れたら、蘭々さんも白瑛さんも助ける人が減る。あなたはここで考えなさい。いつもみたいに、嫌なところを見つけなさい」 母は、私の腕を放さなかった。「私を嫌っていてもいい。許さなくてもいい。でも今だけは、母親らしいことをさせて」 ずるい。 そういう言い方は、ずるい。 私は歯を食いしばった。 胸の奥が熱い。 怖い。 蘭々が落ちた。 白瑛が落ちた。 死帳の第二封が開いた。 それなのに私は、寝台の上で何もできない。「鈴花さん!」 駆け込んできた下女が、さらに続けた。「景黎様が炭庫へ向かわれました! 老医官様も、

  • 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします   第六十二話 死なせてもらえない老人

    白啓を死なせてはいけない。 そう決まった瞬間、部屋の空気はひどく嫌なものになった。 人を売った男。 母たちを壊した男。 白家の腹の底で、帳と香と名前を使い、人の人生に値をつけ続けた男。 その男を、必死に生かさなければならない。 白啓が死ねば、死帳の第二封が開く。 何が起きるか分からない。 分からないからこそ、止めなければならない。 人間というものは、時々、正しさとは別のところで胃が痛くなる。「……水を」 老医官様の声が飛んだ。 医療房の奥、白啓が運び込まれた部屋には、すでに数人の医官と薬童が走り回っていた。 白啓は寝台に横たえられている。 顔色は悪い。 唇も薄く、呼吸は浅い。 だが、完全に意識を失っているわけではない。 時折、まぶたが動く。 まるで、自分がどれほど周囲を慌てさせているか、確認しているようだった。 嫌な老人だ。 本当に、嫌な老人だ。「鈴花、顔」 蘭々が横から小声で言った。「顔色ですか」「顔も顔色も」「最近、そればかりです」「だって鈴花、白啓を見て『この人を助けるの嫌だな』って顔してる」「しています」「隠さないんだ」「隠す余裕がありません」 蘭々は、少しだけ困った顔をした。「私も嫌だよ」「はい」「でも死なれたら困る」「はい

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