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皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします
皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします
Author: 常陸之介寛浩

第一話 皇后を殺したのは寵妃様でした

last update publish date: 2026-08-12 13:44:51

皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。

 それを知っているのは、たぶん私だけだ。

 月の細い夜だった。

 白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。

 私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。

 下級宮女は、音を立ててはいけない。

 目立ってもいけない。

 妃様方の顔を見上げてもいけない。

 命じられる前に動き、褒められる前に消える。

 それが、後宮で長く生きるための作法だった。

 だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。

 玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。

 白い指だった。

 雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。

 その手が、毒を入れた。

 薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。

 玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。

 まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。

「……静寧様」

 玉蘭妃は小さく呟いた。

 皇后様の名だった。

「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」

 その声は泣いているようにも聞こえた。

 でも、泣いてはいなかった。

 玉蘭妃は微笑んでいた。

 私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。

 逃げなければ。

 今すぐ逃げなければ。

 けれど、足が動かなかった。

 玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。

「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」

 女官の声は少し硬かった。

 皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。

 玉蘭妃はゆっくり振り返った。

「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」

「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」

「ええ。だから薬湯だけでもと思って。明霞に頼まれていましたのよ」

 その名を聞いた瞬間、私の指が強張った。

 明霞姉様。

 私を妹のように扱ってくれる、ただ一人の上級女官。後宮に売られて右も左も分からなかった私に、最初に粥を分けてくれた人。

 玉蘭妃の口から、その名が出た。

 女官は一瞬迷ったようだった。けれど、玉蘭妃はもう一度、柔らかく微笑んだ。

「ねえ、皇后様を待たせてはお悪いでしょう?」

「……承知いたしました」

 女官は器を受け取り、奥の寝殿へ入っていった。

 私は、まだ動けなかった。

 玉蘭妃はしばらくその扉を見ていた。白い横顔は、灯籠の明かりに照らされて淡く輝いている。美しい人だった。

 誰かを殺す人間が、こんなに美しくていいのだろうか。

 そう思った時だった。

「そこにいるのは、誰?」

 心臓が止まった。

 玉蘭妃の声は、先ほどと同じように柔らかかった。怒っていない。慌ててもいない。ただ、春の花を見つけたみたいに、静かに問いかけている。

 私は息を止めた。

 沈黙が落ちた。

 遠くで、夜番の銅鑼が鳴った。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 玉蘭妃が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。

 衣擦れの音がした。香が濃くなる。沈丁花ではない。玉蘭妃の香だ。甘く、冷たく、どこか喉の奥に引っかかる匂い。

 私は柱の陰から出られなかった。足が震えている。見つかったら終わりだ。声を上げても誰も信じない。私は下級宮女で、相手は皇帝陛下の寵妃。月と泥ほどの違いがある。

 その時、背後から強い手が私の口を塞いだ。

「っ……!」

「動くな」

 耳元で低い声がした。

 男の声。

 私は暴れかけたが、その手は口を塞いだまま、私の体を柱のさらに奥、暗い物置の扉の隙間へ押し込んだ。

 古い木箱と掃除布の匂いがした。

 隙間から、玉蘭妃の裾が見えた。白と紅の裾。金糸の刺繍。蓮の花。

「……気のせいかしら」

 玉蘭妃は呟いた。

 すぐ近くにいる。

 私の口を塞ぐ手に、少しだけ力がこもった。苦しい。けれど声は出ない。

「おかしいわね。今、鼠の気配がしたのだけれど」

 鼠。

 後宮で下級宮女を馬鹿にする時によく使われる言葉だ。

 美しい妃様方の足元を走り回り、床の埃を舐め、時々踏み潰されるもの。

 玉蘭妃はくすりと笑った。

「まあいいわ。鼠は鼠らしく、壁の穴に戻ればいいのですもの」

 足音が遠ざかっていく。

 香も遠ざかる。

 私はその場に崩れ落ちそうになったが、背後の男が腕で支えていた。

 しばらくして、男は私の口から手を離した。

「声を出すな」

 私は何度も頷いた。

 暗がりに目が慣れてくると、私を押さえていた男の輪郭が見えた。

 黒い衣。細い顎。長い睫毛。冷たい目。

 宦官だった。

 後宮に出入りする男は、皇帝陛下を除けば宦官だけだ。私は一度だけ、この人を遠くから見たことがある。確か、内侍省に所属する若い宦官。名は――。

「黎星、様……?」

 私が囁くと、男は片眉をわずかに上げた。

「下級宮女にしては、よく人の名を覚えている」

「申し訳、ございません」

「謝れとは言っていない」

 黎星様は扉の隙間から外を確認した。薄い月明かりが横顔をなぞる。宦官にしては妙に威がある人だと思った。言葉少なで、表情がない。けれど、こちらを見る目だけは刃物のように鋭い。

「今、何を見た」

 私は唇を噛んだ。

 答えてはいけない。

 でも、黙っていてもいけない。

 今なら言えるかもしれない。この人なら、上へ伝えてくれるかもしれない。皇后様を助けられるかもしれない。

 私は震える声で言った。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、白い粉を」

 そこまで言ったところで、黎星様の目が細くなった。

「最後まで言うな」

「でも、皇后様が……!」

「もう遅い」

 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

「遅い、とは」

「お前が見た薬湯は、もう皇后の寝殿に入った。今ここで騒げば、騒いだ者から殺される」

「そんな……」

「後宮とはそういう場所だ」

 冷たい言い方だった。

 けれど、その冷たさが嘘ではないことくらい、私にも分かった。

 後宮で真実は命を助けない。

 むしろ、命を奪う。

「名前は」

「……鈴花です。洗衣局の下級宮女です」

「鈴花」

 黎星様は、私の名を一度だけ口の中で転がすように呼んだ。

 その瞬間、妙な気持ちになった。

 後宮で私の名をきちんと呼ぶ人は少ない。たいていは「そこの者」「洗衣の子」「鼠」「あの地味な子」だ。名前を呼ばれるだけで、足元が急に頼りなくなる。

「今夜のことは忘れろ」

 私は目を見開いた。

「忘れろ、ですか」

「忘れたふりをしろ。できるか」

「……できません」

「なら死ぬ」

「でも、皇后様が」

「皇后を助けたいなら、なおさら黙れ」

 意味が分からなかった。

 私が黙れば、皇后様は死ぬかもしれない。もう死んでいるかもしれない。それなのに、どうして黙ることが助けになるのか。

 黎星様は、私の混乱を読んだように言った。

「毒を入れるところを見た。そう証言して、お前の言葉を誰が信じる。玉蘭妃は皇帝の寵妃だ。お前は洗衣局の下級宮女。証拠はない。器は洗われる。粉は消える。見ていたお前だけが消される」

「でも……」

「正しさだけで人が救えるなら、後宮に死体は出ない」

 私は言い返せなかった。

 黎星様は私の腕を掴んだ。

「今すぐ洗衣局へ戻れ。誰にも会うな。誰にも話すな。明日の朝、何が起きても、お前は驚くな」

「明日の朝……?」

 黎星様は答えなかった。

 その代わり、戸を少し開け、外に誰もいないことを確認すると、私を回廊へ押し出した。

「走るな。歩け」

「はい」

「振り返るな」

「はい」

「鈴花」

 私は足を止めた。

 振り返るなと言われたのに、振り返りそうになる。

 黎星様の声は低かった。

「生きたければ、今夜見たものを目の奥に隠せ。口に出せば、その口ごと潰される」

 私は、返事ができなかった。

 ただ、抱えていた寝衣を胸に押し当て、歩いた。

 走ってはいけない。

 振り返ってはいけない。

 声を出してはいけない。

 けれど、頭の中では、玉蘭妃の白い指が何度も薬湯に粉を落としていた。

 沈む。

 溶ける。

 消える。

 まるで人の命みたいに。

     ◇

 洗衣局に戻ると、夜番の蘭々が釜のそばでうたた寝していた。

 丸い頬に煤がついている。歳は私より一つ下で、よく食べ、よく怒り、よく泣く子だ。後宮では珍しいほど顔に感情が出る。だから私は、少し心配している。

 ここで長く生きるには、感情は邪魔になるから。

「……鈴花?」

 蘭々が目をこすりながら顔を上げた。

「あんた、遅かったじゃない。白玉宮まで行くだけで、なんでそんなに時間かかってんの」

「ごめん。回廊で夜番に止められて」

「また? あいつら本当、下級宮女相手だと偉そうにするんだから。で、寝衣は?」

「ここに」

 私は抱えていた寝衣を棚に置いた。手が震えていたので、布が少し崩れた。

 蘭々が怪訝そうに目を細める。

「ねえ、顔色悪くない?」

「平気」

「平気な顔じゃないって。何かあった?」

 何かあった。

 皇后様が殺されるかもしれない。

 玉蘭妃様が毒を盛った。

 私は見た。

 言いたかった。

 喉まで出かかった。

 でも、黎星様の声が耳の奥で響いた。

 口に出せば、その口ごと潰される。

「……少し、寒かっただけ」

 私は笑おうとした。うまく笑えたかは分からない。

 蘭々は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

「なら火のそばにいなよ。明霞様が来たら、また怒られるよ。あんた、すぐ自分の具合隠すんだから」

 明霞姉様。

 名前を聞いた瞬間、胸が軋んだ。

「明霞姉様、来るの?」

「来るって言ってたよ。皇后様の寝衣の仕上がりを見に。あの人、上級女官なのにいちいち自分で見に来るんだから、真面目だよねえ」

 蘭々は欠伸をした。

「でもさ、私は好きだな。あの人、下級にもちゃんと人間扱いしてくれるし。玉蘭妃付きの女官なんて、こっち見もしないじゃん。前に洗い直し命じられた時、私のこと『小さい方の鼠』って呼んだんだよ。鼠にも名前くらいあるっての」

 私は返事ができなかった。

 明霞姉様が来る。

 玉蘭妃はさっき、明霞に頼まれたと言った。

 違う。

 そんなはずがない。

 明霞姉様が皇后様の薬湯を、玉蘭妃に頼むはずがない。

 でも、もし。

 もし玉蘭妃が、最初から明霞姉様の名前を使うつもりだったのなら。

「鈴花?」

 蘭々が覗き込んできた。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫」

「嘘。あんた、そういう時ほど大丈夫って言う」

「蘭々」

「何」

「今夜、私が何か変なことを言っても、聞かなかったことにして」

 蘭々の目が丸くなった。

「は?」

「お願い」

「何それ。怖いんだけど」

「お願い」

 私があまりに真剣だったからか、蘭々は口を閉じた。しばらく見つめてから、ぷいっと横を向く。

「……あんたって、ほんと秘密が下手」

「ごめん」

「秘密にしたいなら、もっと普通の顔しなよ。死人みたいな顔して『何もありません』は無理があるって」

 死人。

 その言葉に背中が冷えた。

 私は火のそばに座った。濡れた薪がぱちりと音を立てる。湯気と煙の匂い。洗衣局の夜はいつも同じ匂いがする。布と灰と湿った木。後宮の一番底の匂い。

 妃様方の宮では、香が焚かれ、銀の器が並び、絹が擦れる音がする。

 けれど、その美しい場所で毒が入れられた。

 ここは汚れているけれど、まだ生きている匂いがする。

 私は両手を火にかざした。指先の震えが止まらない。

 しばらくして、戸が開いた。

「鈴花」

 優しい声だった。

 明霞姉様が立っていた。

 淡い緑の上衣に、皇后宮の女官がつける銀の帯飾り。きつく結い上げた髪。疲れているのに、いつも背筋が伸びている。

 明霞姉様は私の顔を見るなり、眉をひそめた。

「どうしたの、その顔」

 蘭々がすぐに口を挟んだ。

「ですよね。変ですよね。私が聞いても寒かっただけとか言うんです」

「蘭々、少し席を外して」

「え、でも」

「お願い」

 明霞姉様の声は柔らかいのに、逆らえない力があった。蘭々は不満そうに唇を尖らせたが、桶を持って奥へ引っ込んだ。

 二人きりになった。

 明霞姉様は私の前に膝をついた。

「何を見たの」

 息が止まった。

「どうして……」

「あなたは嘘をつく時、右手の親指を握り込むの。昔から」

 私は自分の手を見た。確かに、親指が掌に食い込んでいた。

 明霞姉様は小さく息を吐いた。

「鈴花。大事なことなら、私にだけ言いなさい。誰にも聞かせてはいけないことなら、なおさら」

「……言ったら、姉様が危ないかもしれません」

「もう危ないところにいるわ。皇后宮に仕えている時点で、今さらよ」

 明霞姉様は冗談めかして笑った。

 その笑顔を見て、私は泣きそうになった。

 言ってはいけない。

 でも、言わなければ。

 明霞姉様なら信じてくれる。明霞姉様なら、皇后様を救えるかもしれない。

 私は声を絞り出した。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、何かを入れました」

 明霞姉様の表情が消えた。

 驚きではなかった。

 恐怖でもなかった。

 それは、ずっと恐れていたものがとうとう来た、という顔だった。

「……見たのね」

「はい」

「誰かに話した?」

「いいえ。黎星様にだけ」

「黎星に?」

 明霞姉様の声が、ほんの少し鋭くなった。

「なぜ黎星がそこにいたの」

「分かりません。私を隠してくれて……黙れ、と」

「そう」

 明霞姉様は目を伏せた。

 私は急いで言った。

「皇后様は? 今ならまだ、薬湯を止められるかもしれません。器を調べれば、毒が」

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 私は黙った。

 明霞姉様は、ひどく悲しい顔で私を見ていた。

「今から白玉宮へ行ってはいけない」

「でも」

「行ってはいけない」

「どうしてですか!」

 思わず声が大きくなった。

 奥で蘭々が動く気配がしたが、こちらへは来なかった。

 明霞姉様は私の両肩を掴んだ。

「あなたが行けば、あなたが犯人にされる」

「私は何もしていません!」

「していない者が罪人にされる場所なの。ここは」

 私は言葉を失った。

 明霞姉様の指が震えていた。

「玉蘭妃は、もう動いている。あなたが見たなら、あちらも気づいているかもしれない。そうなれば、証人を消すより簡単な方法を取る」

「簡単な方法……?」

「証人を、犯人にする」

 寒気がした。

 玉蘭妃が言った。

 明霞に頼まれていた、と。

 あの場にいた女官は、その言葉を聞いている。

 もし皇后様が死ねば、薬湯を用意したのは誰かという話になる。

 玉蘭妃は言うだろう。

 明霞に頼まれたと。

「姉様……」

 明霞姉様は、私の肩から手を離した。そして袖の中から小さな簪を取り出した。

 古い簪だった。

 銀細工の蓮。花の中央に青い石がはめ込まれている。高価なものではないけれど、丁寧に磨かれていた。

「これを持っていて」

「これは?」

「今は聞かないで。肌身離さず持っていて。誰にも見せてはいけない。蘭々にも」

「どうして私に」

「あなたが、一番よく見ているから」

 意味が分からなかった。

 でも、明霞姉様の目があまりに真剣で、私は簪を受け取った。

 ひやりと冷たい。

「鈴花」

「はい」

「明日の朝、何が起きても、あなたは泣いてはいけない」

「……何が、起きるんですか」

 明霞姉様は答えなかった。

 ただ、私の頬に手を伸ばし、母親のようにそっと撫でた。

「あなたは賢い子よ。でも、賢い子ほど、自分の正しさで死にたがる。だから約束して。生きて。見たことを忘れないで。でも、今は言わないで」

「姉様」

「いつか言える時が来る。その時まで、目の奥に隠しなさい」

 黎星様と同じことを言った。

 目の奥に隠せ。

 私は首を振った。

「嫌です。姉様、どこへ行くんですか。今から白玉宮へ行くんでしょう? 駄目です。玉蘭妃様は姉様の名前を出しました。罠です。絶対に」

「分かっているわ」

「分かっているなら!」

「分かっていても、行かなければならない時があるの」

 明霞姉様は立ち上がった。

 その顔は、もういつもの上級女官の顔に戻っていた。背筋を伸ばし、乱れた袖を直し、帯飾りの位置を確かめる。

 私は慌ててその袖を掴んだ。

「行かないでください」

「鈴花」

「お願いです。姉様までいなくなったら、私……」

 声が震えた。

 後宮で泣くのは愚かだ。

 知っている。

 それでも、涙がこぼれそうだった。

 明霞姉様は困ったように笑った。

「あなた、そういうところは本当に子供ね」

「子供でいいです。だから行かないで」

「……ごめんね」

 その謝罪が、別れの言葉に聞こえた。

 明霞姉様は、私の指を一本ずつ袖から外した。

「鈴花。あなたは生きて。どれだけ惨めでも、どれだけ悔しくても、生きていれば見届けられる。死んだら、悔しいと思うことすらできない」

「姉様」

「それと」

 明霞姉様は、少しだけ目を伏せた。

「私を、信じすぎないで」

 私は瞬きをした。

「え?」

「優しい人間だけが、人を利用するのよ。覚えておきなさい」

 その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

 明霞姉様はそれ以上何も言わず、洗衣局を出ていった。

 私は追いかけようとした。

 けれど、足が動かなかった。

 手の中には、冷たい簪が残っていた。

     ◇

 夜が明ける前、後宮の鐘が鳴った。

 それは朝を告げる鐘ではなかった。

 異変を告げる鐘だった。

 洗衣局にいた者たちは皆、顔を上げた。蘭々が桶を落とし、水が床に広がる。

「何……? 何の鐘?」

 誰も答えられなかった。

 やがて、外が騒がしくなった。女官たちの足音。宦官の怒鳴り声。誰かの泣き声。

 私は火の消えた釜の前に立ち尽くしていた。

 知っていた。

 それでも、知りたくなかった。

 戸が乱暴に開いた。

 入ってきたのは、玉蘭妃付きの上級女官だった。名は朱燕。細い目をした女で、いつも人を値踏みするように見る。

「洗衣局の者、全員その場を動かぬように」

 蘭々が震えながら尋ねた。

「何が、あったんですか」

 朱燕は冷たく答えた。

「皇后様が崩御された」

 誰かが悲鳴を上げた。

 私は、息を吸うことも吐くこともできなかった。

「そして、皇后様の薬湯に毒を盛った疑いで、皇后宮上級女官・明霞が捕らえられた」

 世界が、音を失った。

 蘭々が私を見た。

 私は何も言えなかった。

 朱燕の視線が、ゆっくりこちらへ向いた。

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 玉蘭妃でも、黎星様でも、明霞姉様でもない人に呼ばれた私の名は、まるで罪状のように聞こえた。

「玉蘭妃様がお呼びです」

 私は手の中の簪を、袖の奥に押し込んだ。

 朱燕は笑っていなかった。

 けれど、その目の奥には、もう結果を知っている者の冷たさがあった。

「行きなさい。寵妃様は、お前に聞きたいことがあるそうよ」

 蘭々が小さく私の袖を掴んだ。

「鈴花……」

 私は蘭々の手をそっと外した。

 泣いてはいけない。

 驚いてはいけない。

 叫んではいけない。

 明霞姉様はそう言った。

 私は下級宮女だ。

 誰にも名前を覚えられない、後宮の鼠だ。

 鼠は、恐ろしいものを見ても、鳴いてはいけない。鳴けば踏み潰される。

 だから私は、頭を下げた。

「承知いたしました」

 声は、思ったより落ち着いていた。

 自分でも驚くほどに。

 白玉宮へ向かう回廊は、昨夜と同じように沈丁花の香がした。

 けれど、夜が明けた後宮は、もう美しい花園ではなかった。

 皇后様は死んだ。

 明霞姉様は犯人にされた。

 玉蘭妃は、きっと微笑んでいる。

 そして私は、犯人を知っている。

 でも証拠はない。

 それでも、手の中には簪がある。

 冷たく、小さく、けれど確かに残されたもの。

 白玉宮の扉の前で、朱燕が足を止めた。

「粗相のないように。玉蘭妃様は、皇后様のことで大層お心を痛めておられる」

「……はい」

 扉が開いた。

 甘い香が流れてきた。

 その奥で、玉蘭妃が椅子に座っていた。白い衣。紅の帯。昨夜と同じ美しい指。目元は泣いたように赤く、頬は儚げに青ざめている。

 誰が見ても、悲しみに沈む寵妃だった。

 玉蘭妃は私を見ると、ゆっくり微笑んだ。

「来てくれたのね、鈴花」

 名前を知っていた。

 私は床に膝をついた。

「玉蘭妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう――」

「堅苦しい挨拶はいらないわ」

 玉蘭妃は手を伸ばし、机の上の菓子皿を指した。

 白い菓子だった。

 雪のように白く、粉砂糖がかかっている。

「お食べなさい。顔色が悪いわ」

 私はその菓子を見た。

 白い粉。

 薬湯に沈んだ白い粉。

 玉蘭妃は、優しく首を傾げた。

「どうしたの? まさか、私の差し上げるものが怖いの?」

 部屋の隅に朱燕がいる。

 扉の外には宦官がいる。

 逃げ場はない。

 私は菓子に手を伸ばした。

 指先が震えそうになるのを必死で押さえる。

 玉蘭妃が囁いた。

「賢い子は、長生きしたいでしょう?」

 昨夜のことを、気づいている。

 その瞬間、はっきり分かった。

 これは問いではない。

 脅しだ。

 私は菓子を口に入れた。

 甘かった。

 ひどく甘かった。

 喉の奥に、砂のような甘さが貼りつく。

 玉蘭妃は満足そうに微笑んだ。

「おいしい?」

「……はい。大変、おいしゅうございます」

「そう。よかった」

 玉蘭妃は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。そして、私の顎に指を添え、顔を上げさせた。

 近くで見る玉蘭妃は、本当に美しかった。

 睫毛の影まで美しい。

 人を殺した女だと知っていても、見惚れそうになるほどに。

「ねえ、鈴花」

「はい」

「昨夜、あなたは何も見なかった。そうでしょう?」

 私は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 皇后様の薬湯。

 白い粉。

 明霞姉様の簪。

 黎星様の声。

 生きろ、という言葉。

 目を開ける。

 私は下級宮女らしく、深く頭を下げた。

「はい。私は昨夜、何も見ておりません」

 玉蘭妃の指が、私の顎から離れた。

「いい子ね」

 その声は、母のように優しかった。

 だからこそ、吐き気がした。

「なら、明霞のことも忘れなさい。あの女は皇后様を裏切った罪人。あなたのような子が心を痛める相手ではないわ」

 胸の奥で、何かが焼けた。

 でも顔には出さなかった。

 私はただ、もう一度頭を下げた。

「承知いたしました」

 玉蘭妃は笑った。

「本当に賢い子」

 私は床に額を近づけながら、袖の奥の簪を握りしめた。

 賢い子は、長生きしたいでしょう。

 ええ、玉蘭妃様。

 私は長生きします。

 あなたが皇后様を殺した夜のことを、忘れないために。

 明霞姉様を罪人にしたこの後宮を、最後まで見届けるために。

 今はまだ、私は鼠でいい。

 床を這い、埃をかぶり、誰にも見下される下級宮女でいい。

 けれど、鼠には鼠の見ている景色がある。

 妃様方の裾の汚れ。

 床に落ちた粉。

 誰かが隠した足跡。

 美しい香の奥に混ざる、腐った匂い。

 私はそれを、全部覚えている。

 玉蘭妃様。

 あなたが私にくれたこの甘い菓子の味も。

 私は、死ぬまで忘れない。

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    第二章 第八十五話 十二人の死人、同じ印 東籍院から届いた「青帳は十九年前にすべて廃棄済み」という正式回答と、戸部に十八年間残り続けている青帳関係の支出記録を並べて眺めていると、どちらか一方が嘘なのか、それとも両方とも別々の意味で正しいのか分からなくなり、私は朝から三度目になる溜息をついた。「鈴花、今日は溜息多くない?」 向かいで封布を畳んでいた蘭々が言うので、私は顔を上げた。「数えていたんですか」「三回」「暇なんですか」「暇じゃないよ。でも鈴花が溜息つく時、最初は普通なのに二回目からちょっと長くなって、三回目になると紙を睨むから分かりやすい」「そんな癖ありません」「あります」「ありません」「ありますね」 横から方玄まで口を挟んだので、私はそちらを見る。「方玄さんは仕事をしてください」「しています。あなたが朝から同じ二枚を見比べているので、そろそろ紙に穴が開くのではないかと心配しただけです」「紙は睨んでも穴は開きません」「鈴花なら開けそう」「蘭々」「はいはい」 最近、この二人が私の扱いに慣れすぎてきた気がする。 還名房には、昨日よりさらに多くの帳簿が積まれていた。東籍院へ正式な再照会を出す一方、戸部では青帳制度が廃止された十九年前から現在までの会計、人事、印章管理、紙の出庫記録を洗い直している。これだけでも十分に面倒なのに、死者戸籍の不正使用事件は止まってくれず、地方からは新たな申立てや照会が届き続けていた。 それでも、私は最初に見つかった十二人の記録を手元から外さなかった。 紅珠から始まった十二人。 現在では二十八件以上へ広がり、死者名で官吏になった者まで見つかっているため、最初の十二人だけを特別扱いする理

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    第二章 第八十四話 蘭々、記録官と大喧嘩する 沈克明の証言によって、五年前の白家商路調査を止めた文書を当時の戸部侍郎だった韓徳元が地方へ届けていたと分かった翌朝、私は当然、還名房がもっと重苦しい空気になるものだと思っていた。 ところが実際に戸を開けると、朝一番から蘭々と方玄が本気で喧嘩をしていた。「だから、その金がどこへ行ったのか聞いてるだけでしょう!」「ですから、帳簿には支出先が書いてあると何度説明すれば分かるのです!」「書いてある相手が本当に受け取ったのかって聞いてるの!」「それを確認するには別の帳簿が必要なのです!」「じゃあ最初からその別の帳簿を持ってくればいいでしょう!」「あなたが今朝突然『金を追う』と言い出したから間に合っていないのです!」「昨日からお金の話してたじゃん!」「話していたのは不正戸籍と官吏登用です!」「どっちもお金動いてるでしょう!」 還名房の入口で私は足を止めた。 白瑛が少し離れた机で帳面を読みながら、完全に関わらないふりをしている。紅珠は母の梅春と一緒に朝の粥を食べていたが、二人とも箸を止めて喧嘩を見ていた。「……何があったんですか」 声をかけると、蘭々と方玄が同時にこちらを向いた。「鈴花、聞いてよ!」「鈴花さん、聞いてください!」「同時に話さないでください」 朝から頭が痛くなりそうだった。「先に蘭々」「何で私が先なんですか」「声が大きい方から片づけます」「それどういう意味?」「そのままです」 蘭々は不満そうだったけれど、机の上へ一枚の紙を叩くように置いた。「これ」

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    第二章 第八十三話 正しい記録ほど残酷です 死者の名を使って官吏になった者が、陸文成以外にも少なくとも八人いる可能性が出た翌朝、還名房の空気はいつも以上に重かった。 机の上には、戸部、刑部、工部、地方官庁から集められた人事記録と科挙受験簿、それから死亡戸籍の写しが並べられている。紙の量だけなら白家事件の最中にも見慣れたものだったけれど、今回は一枚めくるたびに「この名前で生きている人間は、本当は誰なのか」と考えなければならないので、読んでいるだけで頭の奥がじわじわ痛くなった。「これ、全部調べ終わったら、今度は何人増えるんでしょうね」 私が思わず呟くと、方玄は顔も上げずに答えた。「増えることを前提にしないでください」「でも昨日十二人だった死人が二十八人になって、そのあと官吏まで八人出てきました」「正確には、戸籍不整合が疑われる官吏が八名です。偽戸籍使用が確定したわけではありません」「方玄さんは、こういう時だけ希望を持たせる言い方をしますね」「希望ではなく正確性です」「同じようなものです」「全然違います」 蘭々が隣の机から顔を上げた。「でも方玄、昨日より顔死んでるよ」「死亡扱いしないでください」「顔の話」「分かっています」「寝た?」「寝ました」「何刻?」「あなたに申告する義務はありません」「鈴花、これ絶対寝てないやつ」「そうですね」「なぜ二人して私を管理しようとするのですか」「方玄さんが倒れたら記録が止まるからです」 私が答えると、方玄は一瞬だけ黙った。「仕事のためですか」「心配もしています」「後

  • 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします   第二章 第八十二話 死人の名前で官吏になった男

    第二章 第八十二話 死人の名前で官吏になった男 王徳が運び込まれたのは、都北門に近い軍医療所だった。 景黎様へ連絡を入れたところ、返事より先に護衛兵が還名房へ到着し、その少し後に本人まで現れたので、私は思わず「皇弟殿下にはもっと別の仕事があるでしょう」と言ったのだけれど、景黎様はまったく悪びれず、「お前が刺された男のところへ、命を狙われている十四歳の娘を連れて行こうとしていると聞いて、それでも朝議に座っていろというのか」と返してきた。「だから護衛をお願いしたんです。景黎様まで来てくださいとは言っていません」「護衛だけ送ったら、お前はその護衛へ『ここから先は大丈夫です』と言って勝手に別の場所へ行くだろう」「そんなことは」 ない、と言い切ろうとしたところで、蘭々と方玄と白瑛が揃ってこちらを見た。「何ですか」「続けてください」 方玄が言う。「言い切れるなら」「……今日は言い切らないでおきます」「賢明です」「方玄さんまで景黎様側へ行かないでください」「私は事実側です」「そういう言い方を覚えましたね」 蘭々がくすくす笑い、紅珠だけは笑わなかった。 当然だと思う。 少女は母の梅春と並んで馬車へ座り、ずっと両手を握りしめていた。怒っているようにも、怖がっているようにも見える。その隣で梅春も何度か娘へ声をかけようとして、結局やめていた。 母娘は再会した。 でも、それですべて元へ戻ったわけではない。 紅珠はまだ母に怒っているし、梅春は娘へどこまで近づいていいのか分からない。昨日は餃子の包み方で少しだけ笑えたけれど、笑えたからといって三年分が消えるわけではない。 そんな二人が今から会うのは、紅珠を奉公へ出し、死亡届を出し、そ

  • 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします   第二章 第八十一話 生きている死人が十二人

    第二章 第八十一話 生きている死人が十二人 東籍院へ正式な照会を出した翌朝、還名房へ届いた返事は、私たちが期待していたものよりずっと早く、そしてずっと嫌なものだった。 東河州から届いたわけではない。都の戸部が、昨夜のうちに二十八人の死亡戸籍について現在の居所を可能な限り洗い直し、その中で本人らしい人物の生存を十二人まで確認したのである。「つまり、死んでいる二十八人のうち十二人が生きてるってこと?」 蘭々が言ってから自分で眉を寄せた。「今、自分で言ったけど意味分かんない。死んでるのに生きてるって何」「戸籍上死亡している二十八名のうち、死亡前の本人と推定される人物が十二名、生存しているという意味です」 方玄が訂正した。「長い」「正確です」「でも分かりにくい」「あなたの言い方では意味が逆転します」「じゃあ鈴花なら何て言う?」 急に振られたので、私は机の上に並べられた十二枚の報告書を見た。「国に殺されたまま、生きている人が十二人見つかった、でしょうか」 方玄が嫌そうな顔をした。「情緒的すぎます」「でも分かりやすい」 蘭々が頷く。「私は嫌いではありません」 白瑛まで言ったので、方玄が一人だけ負けたような顔になる。「記録には書きませんからね」「誰も書いてとは言っていません」「あなた方は気づくと妙な言葉を正式記録へ入れようとしますから、先に言っておきます」「『台車、強い』は蘭々です」「まだ根に持ってるの?」「持ちます」 蘭々が笑ったけれど、笑いは長く続かなかった。 十二枚の紙がある。

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